あの人のすっぴん爪
しなやかに、柔軟に。自分の中の“印象”を形にする和菓子作家・坂本紫穗さん
きちんと手入れが行き届いた指先に目がひきつけられた経験はありませんか? 私たちは意外なほど細部の美しさに敏感です。今回お会いしたのは、ホテルやレストランをはじめ映画作品などでも和菓子の開発や監修を行う、和菓子作家の坂本紫穗さん。「印象を和菓子に」をコンセプトに、移り変わる季節や自然の美しさ、風や光など、日々の中のあらゆる「印象」を、和菓子を通じて表現し続けています。唯一無二の和菓子を生み出すその手指は、何より大切な道具。日々のケアについて、また向き合い続ける和菓子と表現について、坂本さんにお話を伺いました。
一生ものの仕事は「和菓子の夢」から始まった
新卒で大手IT企業に入社し、コンテンツのプランニングやプロデュースをしていたという坂本さん。大きな仕事を任されることも多く、やりがいを感じていたものの、「楽しさのぶん、もちろん苦しいこともありました」と当時の心境を語ります。
「システムのトラブルが起きたとき、夜中に会社の携帯電話から特定のアラーム音で通知がくるのですが、音が鳴るたびに心臓がドキッとしていました。それがいつしか耳鳴りのようになってしまって……。あの頃の私は、とにかく不器用に一生懸命で、いろいろ無理をしていたように思います」
そんな生活の中、自分らしく力を発揮できる新たな道を模索しだしました。
「どんな仕事なら一生続けられるか? と考えたときに、自分はとにかく食べ物が好きだったと思い出して。何らかの形で食べ物に関わっていきたいと、本能的に思いました」
フランス料理や和食の道も考え、学校にも通ったもののどうもしっくりこなかったという坂本さん。「どれも素晴らしく憧れるけど、今の自分が求めているものとは少し違う気がする……」とモヤモヤしていたときに、偶然、和菓子が出てくる夢を見たといいます。
「やわらかくて、色合いがきれいで、繊細。そして小さくて愛嬌がある。和菓子という存在には、私の好きなものや世界観がギュッと詰まっていることに、改めて気づかされたように思いました」
和菓子の仕事というと伝統を重んじる厳しい職人の世界というイメージもありますが、当時28歳だった坂本さんに恐れはなかったようです。
「まったく恐れがなかったといえば嘘になりますが、それよりも自分はどういう形で和菓子に取り組むのが良いのだろうと、まずは自分自身の性格や気質を今一度よく見つめ直しました。そして考えた結果、「和菓子作家」という、これまでにない肩書きを名乗ることに決めました」
自分らしさを表す、「手を止める」タイミング
和菓子づくりに関しては、ほぼ独学。一つ一つ、地道に試行錯誤を繰り返して学んでいったそうです。
「和菓子づくりを始めて2年ほど過ぎた頃、知り合いのお茶の先生がお茶会のお菓子の製作を依頼してくださいました。その日から、本で調べたり、おいしいと評判の和菓子を食べて研究したりしながら、ひたすら試作を重ねて自分なりのレシピを作る日々。楽しみにしてくれる人が、食べてくれる人が、いるからこそ私は必死になれるんですよね」
練り切りあんを一つ一つ丁寧に丸めていく坂本さん
「和菓子には、つくる人の感性が映る」と坂本さん。たとえば、緑色を表現するとき、十人十色の色合いができあがるといいます。
「同じ“緑”でも、人によって感じ方や捉え方は、実は全然違う。私の場合は、どんな色も、やや光度が高いというか、明るく捉えているようです。それは、和菓子を考えるとき、私はどこか夢の世界を表現したいという思いがあるからかもしれません」
和菓子は、夢や理想、そして想いを投影しやすいものだと坂本さんはいいます。
「作品は、あくまで私が受けた印象を形にしたものです。景色や自然など心に留まった記憶をたどり、色合いや手触り、光の当たり方など、思いを巡らせながら印象を具体化していきます。表現の幅はすごく広いけれど、食べれば消えてしまう、儚くて弱い存在。だからこそ叶う表現があると思っています」
丸めたあんを茶巾で絞る。開くと、生まれたばかりのつぼみのような優しい色合いの練り切りが現れた
また、和菓子をつくるとき、リアルさを追い求めることよりも大切なことがあるのだそう。
「たとえば桜をそのまま和菓子で再現しても、たたずまいも色合いも、本物の桜には敵いません。だけど和菓子は食べるもの。まずは“お菓子らしく”仕上げることが大切と考えています。色合いをより優しくしてみたり、形を愛嬌のあるよう工夫してみたり、『おいしそう』と思えるところで手を止める。そのとき、どこで手を止めるかが、作り手の感性の見せどころの一つなのかなとも思います」
“完璧”過ぎないほうが心地いい。しなやかさと柔軟さを手に入れて
和菓子は、手の平や指先を使って形作るものも多い。時には、指先の繊細な感覚が必要になることもあるそうです。
今回つくってくださった和菓子は茶巾をギュッと絞るときに爪を使うのがポイント
「和菓子作家にとって、手と指は道具のひとつです。爪は長すぎず短すぎない状態を維持しますし、いつでもやわらかい材料を丁寧に扱えるよう、指の腹や手の平が硬くならないように気をつけています。重いものを持ってタコができたり、一ヵ所の皮膚が硬くなったりしてしまうと、材料を扱う感触も変わってしまいます」
悩みといえば、水仕事が多いので、爪が乾燥したり弱くなったり、ささくれもできやすく、手指が荒れやすいこと。
「指先が荒れていると作業に集中できないので、寝る前には必ずハンドクリームをたっぷり塗るようにしています」
そんな坂本さんに、ディープセラムをおすすめしてみました。集中して、爪一つひとつに丁寧に塗っていく様子は、まるで和菓子に着色をしているよう。
「ベタつかないのが嬉しいですね。『塗ってる』感が気にならないので、気軽に続けられそうです」
一時期は、仕事にのめりこむあまり食事の優先度が下がって、爪が割れやすくなった時期もあったという坂本さん。何事もストイックになり過ぎてしまう自分を変えてくれたきっかけは、結婚だったそう。
「他者と楽しく暮らしていくには、自分にも相手にも“完璧”を求め過ぎてはいけない。そう気づいて仕事や生活への考え方を少しゆるめたら、いろいろなことが心地よくなりました。つくる和菓子の雰囲気も変わってきたから不思議ですよね」
「和菓子の作業の中でも難しいと感じている、完璧なまん丸や真っ直ぐな線を表現することに価値を置いていた時期もありました。でも、お菓子づくりを積み重ねていくうちに若干のゆがみがあるほうが、自然でおいしそうに見えると感じるようになりました」
「これまでの自分のやり方や価値観に固執しなくてもいい。しなやかさや柔軟さは、実は強さや持続性にもつながるのだと、和菓子を通して気がつきました」
爪も和菓子も、ささやかで小さなものを大切に愛でたい
四季折々の花など自然の造形物のほか、「木漏れ日」や「月あかり」といった自然現象、「予感」や「夕涼」といった心象風景など、さまざまなイメージを和菓子にしてきた坂本さん。普段、インスピレーションを得るために行っていることはあるのでしょうか?
やわらかな色合いとふっくらとした蕾をイメージした形が美しい坂本さんの和菓子
「自分のペースや感性を維持するために、必要以上に情報を入れないようにしています。ニュースや情報の内容によっては、心がザワザワしてしまいますから。状況に合わせて情報を取捨選択するように心がけています。
「インスピレーションを得るために、あえて特別な場所に出かけることはありません。雄大な景色を見ることももちろん素敵なのですが、近所を散歩して見つけた景色や道端に咲く草花、たまたま出会った人との何気ない会話も、私にとっては同じくらい価値のある体験です」
日々の中で見過ごしがちなところに、エネルギーや時間をかけること。「強さや美しさは、細部にこそよく現れるものかもしれませんね」と、坂本さんはいいます。
「印象って、一瞬のこと。でも、その一瞬が強く記憶に残ることがあります。『指先がきれいだった』という印象もきっとその人の印象として相手の心に残るものだと思います。爪にしても和菓子にしても、まずはささやかで小さなものを大切に愛でたい。それがきっと私らしさにつながっているような気がします」
最後に、理想の生き方についてたずねたところ、坂本さんからはこんな返事が返ってきました。
「私は子どもの頃から人を尊敬したり、憧れたりすることはあっても、自分以外の誰かになりたいと思ったことは一度もなくて。いかに自分であるかが大事なのですよね。だから、何歳になっても自分自身が変化できるように、しなやかで、柔軟でありたい。そして自分の心に素直でありたいです」
坂本紫穗(さかもと・しほ)さん
オーダーメイドの和菓子を作品として制作・監修。日本国内および海外で和菓子教室やワークショップ・展示・レシピの開発を行う。「印象を和菓子に」をコンセプトに、日々のあらゆる印象を和菓子で表現し続ける。
公式サイト:shiwon.jp
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